幼年巡礼

私は高校2年生の初めに生まれてからずっと住んでいた埼玉を離れ東京に引っ越した。埼玉の高校に通っていたため埼玉県にはよく行っていたが、

かつて住んでいた越谷に行くことは全くなかったと言って差支えないだろう。あ、私は今21歳ね。だから5年というのは20代前半の私にとってノスタルジックな感傷に浸るに十分な時間なんですよ。

 

1月8日、彼女の成人式のために埼玉へ行ったついでに越谷や蒲生、新田の思い出の場所をいろいろ巡ったのだった。

ちなみにこの雑記録は先日購入したもののまだあまり使えていなかったiPadのスマートキーボードの慣らしを兼ねる。

 

基本的には自己満雑記録となろうことと思われる。

さて、南越谷の駅周辺を歩く。

 

新越谷の旭屋書店

私の親は自分の買う小説によく金を出してくれたものだから、私は学生時代本に困ることなく自分の読書欲を存分に満たすことができた。いま思い返すと何と恵まれた環境であろうか。親が私の本に投資してくれたのは高校時代の恩師の言葉によるそうである。自分の子供には本を買ってあげなさい、図書館の本でなく本を所有させなさい、と。母親が何を思ってこの教えを実行しようとしたのかはわからないが、このような経緯で私の本棚にはかなりの本がある。本を持つことの所有欲を満たす以外の効果とはなんだろうか。いつでも読み返せることだろうか。おそらくそんな話ではない。私は本棚の膨大な量の本を見るたびに自分を肯定されているような気がする。今まで読んできた本は漏れなく自分の血となり肉となっている。自分を見失いそうになった時に絶対に揺るがない確かな自信としていつでも自分の味方でいてくれる様な気がする。母は恩師の言葉の意味するところ私に語らなかったが、おそらく恩師の真意このようなものなのではないだろうか。

 

 

イオンの小さなゲームセンター

かつてダイエーだった街の小さなショッピングモール。自分が物心ついた時からすでにお世辞にも綺麗とはいえない、かなり老朽化の進んだ建物である。コンサートなどに使われる程よい大きさのホールを併設したショッピングモールで、屋外の広場があり子供の遊べる土管のようなオブジェがある、そんなショッピングモールに旧式のゲーム機や、全く物欲をそそられないキャラクターもののポーチなどを景品としたUFOキャッチャー(これももちろん旧式)をいくつか設置したゲームセンターがある。ゲームセンターというよりゲーム機のある広場といったほうが良いのかもしれないが。そこにストリートファイター2が置いてあり、高校時代よく学校帰りに寄り道したものだった。寄り道といっても学校のある大宮から電車で40分ほど離れた地元のゲームセンターだからもちろん友人は連れず1人で寄っていた。ただそれだけの場所であるが、現在住んでいる東京の人の多い街にはないいい感じに寂れた雰囲気は埼玉に住んでいた当時から感じており、他に新しいゲームセンターも存在していたにもかかわらず幾度となく通っていた。

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商店街

昔通っていた小学校の近くにある商店街。私が小学生の時分からすでにシャッターの降りた店が多く寂れた雰囲気を漂わせていたが、数年振りに訪れた商店街はさらにその様相を強めていた。建物自体が取り壊され跡地が駐車場になっているところも散見された。あまり集客も見込めないであろう立地であるから新しく店はできないのだろうと思わないこともない商店街である。

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 その商店街の半ばを曲がると私が通っていた小学校がある、いや、あるはずだったというのが正確だろう。私の通っていた公立小学校は二つの小学校が隣接しているという(たぶん)珍しいものであった。確か元々存在した蒲生小学校の生徒数が増えすぎたために新たに隣接する小学校を作った(私の通っていた蒲生第二小学校である)という経緯であったと思うのだが、その二つの小学校が一つになっていた。校舎の古い蒲生小学校の校舎を取り壊し、比較的新しかった第二小の校舎を残し、第二小学校の名前を撤廃して蒲生小学校として一本化されていたのである。どことなく寂しさを感じる。商店街から小学校の方に向かう道の入り口には二つの小学校の校名を掲げた石の標が建っていたのだが、そこにはもう蒲生第二小学校の文字はない。

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柘榴の木

そんな蒲生小学校(旧蒲生第二小学校)の校門を入ってすぐ左手に小さな池がある。ビオトープとして人工的に作られた池であるが、そのほとりに一本の柘榴の木がある。私が小学校2年生くらいだったと思うが、新しく赴任してきた若い女の先生が昼休みにこの木から柘榴の実を取って食べていたのだった。彼女の周りには数人の児童がいて一緒に柘榴を食べていた。当時私は柘榴の実を見たことがなかったし、入学してから毎日目にしていた木がこんなにも不思議な実をつけるのかと吃驚してその場に立ち尽くしていた。そんな私に気がついた女教師が一緒に食べるかと声をかけてくれたため私もその輪に加わった。美味しかった記憶があるが、それ以来柘榴を口にしていないからどんな味だったか思い出そうにも思い出せない。

幼年の記憶には意外と当時心に残らなかったものが何年も経ったのちにふと強く思い起こされるものがあると思う。この柘榴の記憶もつい半年ほど前に耳鼻科の待合室でふと思い出されたものであった。人間の記憶は年月と共に正確性を欠いていくものであるから、思い起こされたこの記憶が果たして本当の記憶なのかそれとも無意識に捏造されたものなのかわからないでいたが、葉や実を落としたその木に一つの柘榴の実を見たとき朧げな記憶が急に色づいたのを感じた。

f:id:en123:20240108195858j:image(見えますか、ほらひとつの果実)

これを書いている今思い出したがこの木に実ったまだ小さい柘榴の果実を小さい私はタコさんウインナーと見紛ったのだった。それがまるまると大きくなることを幼少の私は想像できなかったのだろう。

 

児童館

私は中学受験をしたものだったから小学校時代に友人と遊んだ経験があまりない。だからほんの少しの友人と遊んだ記憶が強く残っていることが殊に小学時代において結構ある。まあそんなことはいいや。児童館に関しても何回か友人と遊んだ記憶が強く残っているけれど、それとは関係なしに幼稚園児くらいの時から親に連れられたびたび訪れた場所であるため思い入れは一入といったところだ。この児童館、1階は幼児向けのスペースだったりレンタルスペースだったりでそこまで思い入れはないのだが、2階と3階はよく遊びにきた思い出があり、久しぶりすぎて(たぶん小学校卒業以来一回も行っていない)なかなかノスタルジックな感じだった。ちなみに2階は生物の展示、3階は科学の展示だ。児童館に展示されるレベルの生物にはそこまでの興味が幼少期からなかったし、大人になっても特にそこは変わることもなかった。生き物という絶えず動き続けるものは常に新鮮な気持ちで見れるためあまり懐かしさを感じることはない。つまり2階の関してもそこまで書くことはない。さて特筆すべきは3階。私が小学生くらいの時から全く変わっていない!全てが自分の記憶のまま。この街を歩き、商店街は寂れ、小学校はなくなっていたが、全く変わらないものがここにあった。

写真の奥には地球と生命の誕生に関する映像を観れるスペースがある。あまり人もいない3階の奥で映像のスイッチを押す。程なく映像が始まる。47億年の時が恐ろしいスピードで流れていく。私はそれを眺めることしかできない、その流れについていくことはできない。気がつくと隣に小さな男の子が座っていた。何を思ってこんなもの観ているのだろうか。小さい子供が見て面白いと感じるようなものでもあるまい。

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綾瀬川の河川敷を歩く。日本で一番汚い川だと聞いたことがある。水質改善に取り組んでいるみたいな話を聞いたこともあるからもしかしたらもう一番ではないかもしれないが。小さい頃綾瀬川のすぐ近くのマンションに住んでいたからこの河川敷にはよく遊びにきたものだ。幼稚園の頃ローラースケートで遊んだり、少し太ってしまった小学校4、5年生くらいの時に朝毎日走ったり、暇な時に散歩したりとかとか。あまり変わらないなー。草が少し生えて川のほとりに新しい小屋が立っているくらい。猫がいた。夕陽に照らされて気持ちよさそうに眠っていたけれど私が近づくと逃げてしまった。

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綾瀬川の河川敷に沿って歩くと昔通ったピアノ教室がある。幼稚園年中くらいの時から東京に引っ越す直前まで通っていたから10年以上通ったことになる、温厚だった先生元気で過ごしているだろうか。先生の自宅の一階が教室になっているからインターホンでも押せば会えたかもしれないがなんとなく気が引けてそのまま通り過ぎてしまった。

 

越谷市草加市の境になっている川が綾瀬川である。小さい頃綾瀬川のすぐ近くに住んでいたから小さい頃に電車でどこか出かける時は新田という小さな駅を使っていた。だから私の幼少期の野中でも特に最初期の記憶はこの辺の地域に散らばっている。まーでも幼稚園くらいの記憶はもう覚えていないこともほとんどだし、このブログも3000字を超えて飽きてきてしまったので一箇所紹介するくらいにとどめておこう。

 

ヨーカドー

新田駅の近くに存在するヨーカドーの店舗である。ネットで調べてみたところ5年くらい前に一度閉店して建物がもう変わってしまったそうであるが、建て替え前の建物にはかつて屋上遊園地が存在していた。実家を漁れば当時の写真が出てきたりもするだろうか。現在では絶滅しかけている屋上遊園地があまりにも自然な形で存在していたのである、小さい頃母親が漕ぐ自転車の後ろに乗って連れてきてもらったものだった。自転車の後ろに乗るくらいだから本当に昔のことだろうが、いつまで存在していたのだろうか。5年ほど前に懐かしくなって一度訪れたことがあったが、屋上に上がる階段はもう封鎖されてしまっていた。f:id:en123:20240115164000j:image(これは現在のものかつての面影もない)

f:id:en123:20240115164254j:image(これは2019年ごろに行った時の写真。屋上への階段は封鎖されている)

 

 

とりあえずこのくらいで投げてみる。気が向いたら加筆推敲を行うつもりであるが、いつになるかはわからない。

駄文置き場〜自分の社交性のなさについて雑記

とにかく人とのコミュニケーションが苦手である。推敲もしなければ書いた文章を顧みることもしないただの雑記録であり、処遇に困って昔アカウントだけ作るだけ作ってほとんど投稿すらしなかったはてなブログに投げる駄文である。
もう何もわからない。これまでの人生を振り返ってみる。友達に不便したことはなく友達ができないわけでもない。単純な客観的な事実でしかないが、しかし客観的なモノはときに絶対的な指標になり得るものであり、そのせいで私は正常な判断ができないで居る。事実私はこれまでの人生友達が居なくて困ったことこそないが、中学高校、大学でそれぞれ仲良くなった友人達は口をそろえて私が変わり者であることを指摘する。漠然とした指摘であり、そのために私はまたしても愚かにも自分のコミュニケーションの不得手を自覚しないで居たが、大学の学部の友人は唯一具体的に私のコミュニケーションの欠陥を指摘した。それは会話の主導権をひとたび握ってしまったら意地でもそれを離そうとしないと言うことである。これは言い方を変えると自分語りが過ぎると言うことであろう。図星である。図星である。あまりに言い得ている。さてそのコミュニケーションの土壌が形成されたのは通っていた中高一貫校の特殊な環境のせいであるがのちほどそれはたらたらと書き連ねていくとして、まあ実際の経験を交えながら過去を回想し、反省というか黒歴史というかを苦い顔をしながらかみしめてみよう。自分語りが多いというあしき性質に思い当たったのは昔付き合っていた彼女との関係性にも伺うことができる。会話というものは情報をあいてに渡すということでもあると思う。つまり自分がどれほど相手の情報を得たか。相手がどれほど自分の情報を手にしたか。これはお互いがどれくらい自分を開示したかという程度に直結している。結果から書こう。おそらく元カノは私という人間の情報をほぼ知っていたと思う。それは身長や体重と言ったモノにとどまらず過去と現在の交友関係、私と仲のよいMくんの性格や好きなモノまで兎に角何でも知っていたのではないだろうか(無論彼女はその情報に興味がないであろうから彼女の頭にその情報がどれくらい残っているかは知らない)。まあ好きになった女の子との会話とかはk街と記憶に残っているモノなので思い返してやはりその自分語りの多さにびびるものである。
では自分語りを減らせばよいのか。
いや多分そういう問題ではない。多分話題の提供が下手なのと与えられた投げかけに対して自分はうまく立ち回れていない。
 最近の若者ってインスタでそれはそれはよくやりとりするらしいじゃない?まあその前はラインだったんだろうけれどさ。もうそれができない訳よ。インスタなんかうまいモノ食ったときに乗せるだけだし、ラインも事務連絡しかしないからそれ以外の連絡が本当に下手。もう画面の中でやりとりするくらいならまだリアルの方が良い。雰囲気でごまかせるから。
あまりに生きにくい。この世界。一人からに閉じこもって生きるのはすごく気楽で、気持ちがよくて、最高なんだけれど、結局社会性って言うのは切っても切り離せないモノじゃない。完全に切り離している人も居るだろうけれど無理でしょ。だからさ、とにかく生きにくい。
中高時代の仲のよかった奴らと居るのは本当に気が楽なんだよな。たぶん彼ら全く俺と同類だから。会話において譲歩しないから。これに関して友人は全員がベクトルの異なる同じくらい強い自我を持っているっていっていたけれど、私も同じ認識である。自分と、じんと関わる相手がお互いの関係性を同じものであると認識している関係性は気が楽だ。当たり前だけれどね。
しかしどんなにくだらないことでもよいから自分が好きなモノを愚直に極めろと言っていた中高の校長の言葉は好きだったな。これがみんな違う方角に突っ走ってしまっている一つの要因になってしまっているのかもしれないが。個を強くするという母校が掲げていた学校教育における一つの成果であるが強すぎる自我は社会性を剥奪させる。

3rdステージ突入!

    20歳になった。10代が終わってしまった。おじさんと呼ばれる日もそう遠くはないだろう。絶望しかない。お先真っ暗よ…

 

   写真は誕生日の少し前に夜景の見えるところで誕生日を祝って貰った時のもの。
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 当たり前のことだが、人生の半分10代だったわけだ。10歳以前の記憶なんて残っていないことの方が多い気がするから、これまでの人生の3分の2くらいが10代だった感じ。

   10歳って小学4年生か。中学受験をするための塾に通い始めた頃だ。このあたりから小学校を卒業するまでは勉強以外の記憶があまり残っていない。同級生に遊ぼうと誘われても、勉強があるから、と断らなければならず、少し寂しく感じていたことをいま思い出した。あの頃は小学校にいた時間と仲のよかった友人との下校時間だけが楽しかったっけ…

 中学校に入ってからの記憶はかなり鮮明に残っている。中高一貫校だったため12歳から18歳までずっと同じ環境で生活したわけだから、そりゃ出来事もかなり鮮明に残っているよなあ…

 

  そういえば 先週、中高時代の友人2人に夜三時に近所の公園に呼び出された。そのうちの1人はいつの日かこのブログにも登場させた非日常を生きる友人だ。いくら仲がよかったとしても違う大学に通っているだけでだんだんと合う頻度は少なくなってしまう。

   積もる話に花咲かせている間に夜が明けた。誰が今何をしているとか、高校時代に付き合っていたカップルが別れただとか。そんなとりとめのない話。

   なんかすごく楽しかった。久しぶりの友人に会えたうれしさと、それぞれ違う道を歩みながらもこの少しの間だけ高校時代に戻ったかのようなすごく懐かしい感じ。
   誰もいない深夜の公園で、バネで揺れる馬の遊具にまたがっていたことも子供時代の秘密の会合みたいでその楽しさをより強めたのかもしれない。

   これからもたまに再会してはこんな感じで笑っていられたら良いな。
 大学の方でも好きなことをして、良い友人もいて。恵まれているなあ。

   どうか20代も楽しく過ごせますように。

東北旅行2日目、3日目(最終日)

 ちゃんと書かなきゃ。もう5日くらいたってしまった。旅の記憶が薄れぬうちに書かなければ…

 さて、そういうわけで宿代を浮かすために前日は岩手から東京の自宅まで舞い戻った私であったが、2日目は盛岡にあるわんこそばのお店、東屋で来店順に配られる整理券をゲットするべく朝6時の新幹線に乗った。
 1日目がなかなかに濃かったためか、新幹線内では爆睡。一度も目を覚ますことなく終点盛岡にたどり着いた。
 9時を少し過ぎたくらいの時間に盛岡に到着し、10時半開始の整理券配布には少し早く着きすぎた感も否めなかったが、この日はとても寒く、青森にも行こうかと考えていた私はバスに乗り込み、防寒着を獲得するべく盛岡駅から一番近いユニクロに向かったのだった。イオンモールの中にあるユニクロだったが、10時半の整理券配布に遅れてはまずいと焦っており、爆速でウルトラライトダウンを購入し、ショッピングを楽しむこともなく再び盛岡駅行きのバスに乗り込んだのだ。

   もしかしたら大行列で整理券もすさまじい競争率なのかもしれないと危惧していた私であったが、いざ蓋を開けてみるとあんまり人もいなかった(早すぎたのかもしれない)

整理券を受け取り、店員に13時頃になりますと言われた時点の時刻は10時45分。2時間ばかり暇になってしまった。特に計画も立てていなかったため、盛岡にどんな名所があるかわからず、とりあえずネット検索して出てきた宮沢賢治の「注文の多い料理店」を出版した光原社に行ってみた。ここ出版社なのかな。工芸品ショップみたいだった。建物とか中庭の雰囲気が素敵で、まるで物語の世界に迷い込んだかのような感じがした。

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 さて、北上川沿いにだらだら歩いて良い感じに時間が近づいたので、わんこそばの店に戻る。

わんこそばに挑戦、結果はこちら。

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結構食べたと思うけれど、木製の手形がもらえる下限である100杯を超えたところで満足してしまい腹9分目くらいでやめてしまった。味は普通だったが、おいしく味わえるところでやめておいたのは正解だったかもしれない。

 

 ノープラン旅行続行中。はやぶさに乗り込んで続いては新青森に向かいます。
太宰治の生家である斜陽館や三内丸山遺跡など、そのあたりの観光地を適当に回ろうと思いながら新青森に到着。
在来線は本数が少ないし、時間もかかるからレンタカーを借りようと思って駅前のレンタカー屋数軒回った。数件回っている時点でお察しであろう。空きが全くなかったのである。

移動手段がここで途絶えてしまった。時刻は15時。青森では何もできないだろう。仕方がない、と仙台まで戻る。

仙台戻って何かするでもなく快活入って漫画読んで2日目終了。

仙台の利久の店先で売られていた牛タンカレーパン美味しかった。

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ところで東北、東京では受信できない「サンドリ」聴けるのがすごくよかった。radikoプレミアム登録するしかないかー。

 さて3日目、何したかって?夜バイトだから15時の新幹線に乗らなければいけなかったのだけれど、この日は10時に起きて銭湯でサウナ満喫して、お高めの海鮮丼食って終わり。奥新川とか行こうかとも思ったけれど、眠くて動けんかった。

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旅の最後に食べた海鮮丼。美味しかった。いい旅だった!

東北旅行1日目

 
 少し前にこのブログでも書いた、鉄道開通150周年記念の新幹線、在来線乗り放題切符、JR東日本パスで東北旅行中である。
 2022年10月23日、旅行1日目。
 田舎の電車の間隔がつかめず、ホームで50分待つ羽目になったため、1日をまとめようとこの記事を書き始めた。
  
 さて、昨晩は普段の不規則な生活のために結局朝の4時頃まで眠れなかったが、早い時間に出たら色々見て回れるだろうと言う考えのもと、1時間ちょいの睡眠をとった後、5時台の電車に飛び乗った。
 

はやぶさ号に乗ったのは中学生以来だったが、速い!東京ー仙台間を1時間半ほどで行き来できるという…
大宮を過ぎたあたりで一眠りして目覚めたときには目的地の仙台に着いていた。

 仙石線に乗り込み松嶋海岸駅で下車。

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駅前で松島湾クルーズの船のチケットを1000円で購入、クルーズ終了後に船着き場近くに発見したこけし屋でこけしの絵付け体験。終了後、伊達政宗菩提寺である瑞巌寺の入り口付近の甘味処ででソフトクリームを食べた後、いざ参拝しようと思ったが、参拝料の高さにおののいて、結局参拝はせずに松島を後にしたのだった。


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(絵付け体験、好きな顔を描くことができる)

 友人が多くJR東日本パスを使っていることからも容易に想像つくことであったが、東北の観光地、どこに行っても観光客ばかり。
 仙台で牛タンを食べようと思っても、どこも大行列で入れそうになかったため、牛タン弁当を購入し、新幹線ホームでいただいた。
 

 さて、その後一ノ関駅までやまびこ号の自由席で移動、一ノ関からバスで中尊寺へ。
 連日歩きっぱなしで疲労のたまっている脚に急斜面の参道は堪えたが、無事境内にたどり着く。金色堂の参拝料800円にまたしてもおののいたが、中尊寺金色堂は見ずに済ます選択肢はなく、泣く泣く参拝料を支払った。
 金色堂、以外と小さい。奥州藤原氏1〜3代の遺体と、4代目の首が安置されていたという豪華絢爛なお堂であるが、教科書等で見慣れていたからであろうか、金色堂そのものよりも、宝物殿に納められた奥州藤原氏の副葬品等のほうが心惹かれた。
日が傾き始めた17時前に毛越寺へ。まー立派な庭園だった。

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栄華の跡地にもののあはれを感じぬこともなったが、そこまでの感動はなかった。

一ノ関駅から盛岡に向かい、そこで一泊しようとも思ったが、よくよく考えたら家に帰った方が安上がりであると思い至り、帰宅。
 一ノ関から大宮まで立ちっぱなしだった。疲れたぜ。
しかし、
おうち最高!
次回2日目。

非日常に生きる彼の話


 木曜5限、必修の中国語の授業を受けてる最中、ある友人から、今日夕飯を一緒に食べないかという誘いが来た。会うのは2ヶ月ぶりくらい。
 

 この友人、高校時代の同級生で、いつも他の一人を交えた3人で一緒にいた。高校在学中からインターンやらなんやら、私にはよくわからないようなことに果敢に挑戦する、知らない人にもどんどん話しかけるといった性分で、当時からすごいやつだと感心していた。まあ時間にルーズだったり、ゴミをポイ捨てしたりなど、私をドン引きさせるような言動も少々あったのだが…
 さて、そんな彼、大学入学後にサークルにも入らず、おしゃれなレストランでのバイトに勤しみその持ち前のコミュニケーション能力で、業界内に次々と知り合いを増やし、その辺の大学生とはかけ離れた収入と顔の広さを手に入れている。
 その彼と、20時に麻布某所で待ち合わせる約束をし、私は授業終了と同時にいそいそと電車で麻布に向かったのだった。

 しかし、高えよ、麻布。敷居がよぉ。

 そこらの大学生がほいほい遊びに来る街じゃねえだろ…

   家からあまり遠くない大学にはほぼパジャマのような格好で通っているから、直で麻布、きつーい、と思わないこともなかったが、なにせ私は青山をジャージで闊歩する男。そんなこといちいち気にしちゃあいません。

 

 ところで、ここ最近彼と飯を食いに行くたびに感じる。彼、時間通りに集合場所に現れるようになった。彼の進歩に驚くと同時に少し寂しいような気もする。
  
 レストランでおいしい料理でもがっつり食べるのかと思いきや、どうやら向かった先はスウィーツ専門店。彼の知り合いのシェフが新しくオープンさせた店だそうだ。

 

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おいしいモンブランをいただきました。

 

モンブランをフォークで切り分けながら、そしてなかなか口にすることのないお高いスウィーツを味わいながら、彼はもう自分とは全然違う世界に生きているのだなぁと、しみじみ思ったのでした。

『ゲンセンカン主人』を読みました


 先日、つげ義春氏の「ゲンセンカン主人」を読んだ。つげ義春氏の作品はそこそこ読んでいるのだが、この作品は中でも印象に残った。
 そんな「ゲンセンカン主人」、作中にどうも気になる表現を見つけた。(ストーリーとか紹介する気はない)以下に引用するその表現はゲンセンカンの主人とある老婆の会話に出てきた台詞である。
 
 ―前世がなければ私たちは生きていけませんがな。だって前世がなかったら、わたしたちはまるで幽霊ではありませんか
    引用 「ねじ式 夜が摑む」ちくま文庫

 

 この老婆の台詞の直前に「きっと前世の因縁でしょう」という台詞も見られる。
 

 これら前世にまつわる表現、なんか聞き覚えがある気がする…
 

 そうだ古文だ。高校とかでならう古典文学、その中に前世にまつわる言葉や表現がよく登場していた。
 例えば、古文単語の「契り」の意味は約束や男女間の恋愛の意味の他に前世からの因縁や宿縁、といった意味合いもある。
 受験勉強で古典文法を頭にたたき込もうと躍起になっていた当時は特に気にもとめることもなく、この違和感のある表現に無理矢理自分を納得させていたような気がするが、今回調べてみたところ、どうもこれには仏教思想が関係しているそうである。 仏教の輪廻思想はどこかで聞いたか読んだかして知っている。まさかこのように人々の意識の深くまで浸透していたとは思わなかったが…
 輪廻思想とは天道、人間道、修羅道畜生道、餓鬼道、地獄という6つの世界をループし続けるという思想だったはず。一生の行いに応じて次に転生する世界が決まるという考え方。仏は悟りを開いてこの永遠のループから抜け出した(解脱した)存在であり、世界をループし続ける人々は悟りを目指すという。
 つまり仏は前世のしがらみとか、前世そのものから解放された存在であるってことらしい(多分)。

 話は「ゲンセンカン主人」に戻るが、前世がないものは幽霊のようであるという。なぜつげ義春はここを仏とか神様ではなく、幽霊としたのだろうか。私には幽霊は死者であるというイメージが強いからどうしてもその前世の存在を意識してしまう。ここで幽霊の定義を辞書を引いてはっきりさせてみる。

ゆうれい【幽霊】
(1)死者が成仏(じょうぶつ)できないで、この世に姿を現すというもの。亡霊(ぼうれい)   

              明鏡国語辞典  

 

え?死者ってことはもともと人間だったわけだから前世あるんじゃないの?
うーん成仏していないってことは現世に未練残して止まっているだけで、輪廻の輪っかからは外れていないんじゃない?

 

これは専門知識のない私が掘り下げても答えは出ない問いだな。

 

よし、それならこれで終わり!グッバイ!