駄文置き場〜自分の社交性のなさについて雑記

とにかく人とのコミュニケーションが苦手である。推敲もしなければ書いた文章を顧みることもしないただの雑記録であり、処遇に困って昔アカウントだけ作るだけ作ってほとんど投稿すらしなかったはてなブログに投げる駄文である。
もう何もわからない。これまでの人生を振り返ってみる。友達に不便したことはなく友達ができないわけでもない。単純な客観的な事実でしかないが、しかし客観的なモノはときに絶対的な指標になり得るものであり、そのせいで私は正常な判断ができないで居る。事実私はこれまでの人生友達が居なくて困ったことこそないが、中学高校、大学でそれぞれ仲良くなった友人達は口をそろえて私が変わり者であることを指摘する。漠然とした指摘であり、そのために私はまたしても愚かにも自分のコミュニケーションの不得手を自覚しないで居たが、大学の学部の友人は唯一具体的に私のコミュニケーションの欠陥を指摘した。それは会話の主導権をひとたび握ってしまったら意地でもそれを離そうとしないと言うことである。これは言い方を変えると自分語りが過ぎると言うことであろう。図星である。図星である。あまりに言い得ている。さてそのコミュニケーションの土壌が形成されたのは通っていた中高一貫校の特殊な環境のせいであるがのちほどそれはたらたらと書き連ねていくとして、まあ実際の経験を交えながら過去を回想し、反省というか黒歴史というかを苦い顔をしながらかみしめてみよう。自分語りが多いというあしき性質に思い当たったのは昔付き合っていた彼女との関係性にも伺うことができる。会話というものは情報をあいてに渡すということでもあると思う。つまり自分がどれほど相手の情報を得たか。相手がどれほど自分の情報を手にしたか。これはお互いがどれくらい自分を開示したかという程度に直結している。結果から書こう。おそらく元カノは私という人間の情報をほぼ知っていたと思う。それは身長や体重と言ったモノにとどまらず過去と現在の交友関係、私と仲のよいMくんの性格や好きなモノまで兎に角何でも知っていたのではないだろうか(無論彼女はその情報に興味がないであろうから彼女の頭にその情報がどれくらい残っているかは知らない)。まあ好きになった女の子との会話とかはk街と記憶に残っているモノなので思い返してやはりその自分語りの多さにびびるものである。
では自分語りを減らせばよいのか。
いや多分そういう問題ではない。多分話題の提供が下手なのと与えられた投げかけに対して自分はうまく立ち回れていない。
 最近の若者ってインスタでそれはそれはよくやりとりするらしいじゃない?まあその前はラインだったんだろうけれどさ。もうそれができない訳よ。インスタなんかうまいモノ食ったときに乗せるだけだし、ラインも事務連絡しかしないからそれ以外の連絡が本当に下手。もう画面の中でやりとりするくらいならまだリアルの方が良い。雰囲気でごまかせるから。
あまりに生きにくい。この世界。一人からに閉じこもって生きるのはすごく気楽で、気持ちがよくて、最高なんだけれど、結局社会性って言うのは切っても切り離せないモノじゃない。完全に切り離している人も居るだろうけれど無理でしょ。だからさ、とにかく生きにくい。
中高時代の仲のよかった奴らと居るのは本当に気が楽なんだよな。たぶん彼ら全く俺と同類だから。会話において譲歩しないから。これに関して友人は全員がベクトルの異なる同じくらい強い自我を持っているっていっていたけれど、私も同じ認識である。自分と、じんと関わる相手がお互いの関係性を同じものであると認識している関係性は気が楽だ。当たり前だけれどね。
しかしどんなにくだらないことでもよいから自分が好きなモノを愚直に極めろと言っていた中高の校長の言葉は好きだったな。これがみんな違う方角に突っ走ってしまっている一つの要因になってしまっているのかもしれないが。個を強くするという母校が掲げていた学校教育における一つの成果であるが強すぎる自我は社会性を剥奪させる。