原始的な笑い


 9月も気がつけば終わりに近づいていている。私の通う大学も秋学期に突入した。

 さて私は3つバイトを掛け持ちしているのだが、その一つである塾講師のバイトで、耳の聞こえない高校生に国語を教えている。

 もちろん何も考えずに日々のうのうと19年生きてきた一大学生に手話は扱うなんて高等技術はないので、彼とのコミュニケーションは音声をテキスト化するアプリを介して行っている。彼は声を発することができないので、基本的に授業は私が一方的に話す形になる。
 
 このブログで別に彼についてこれ以上掘り下げるつもりはない。彼にとっての日本語と私にとっての日本語はその習得方法から大きく異なっていると思ったということについて書くだけである。日本語は(他言語もかもしれないが)文字化されたテキストにおいても発声を前提としている要素が多いと思った、というただそれだけの話である。これより先にたいした内容はないよ、今回は。多分。

 ある時その生徒の授業で二葉亭四迷ペンネームについて触れられている文章を扱った。二葉亭四迷という小説家はご存じの方も多いだろう。彼の著作『浮雲』は初の言文一致体による小説で文学のあり方を大きく変えた作品であると高校の授業で習った方も多いのではないか。
 そんな二葉亭四迷、本名を長谷川辰之助というのだが、ペンネームは「くたばってしめぇ」という罵倒文句に由来するという。
 私たちはこのような言葉遊びを面白いと感じるが、それは私たちが言葉を音声で認識することができているからであるだろう。
 

HUTABATEISIMEI
KUTABATTESIMEE
 

日本語を音声で認識することが難しい人に母音は似通っているでしょう、このように音声の核となる母音が一致していると音の響きが似るからそこに人々は感心するの、なんて教えてみても生徒の彼はその論理を理解することはできてもそれを実際に感じて感動することはない。そう思われて、なんとなくもどかしい気持ちになったのだった。

 私たちは文字を覚えるより先に音声から覚えるはずである。「まま」とか「わんわん」とか…
 このように第一言語においてはほとんど例外なく感覚的な音声から習得が始まる。先ほどの二葉亭四迷の例やラップなども音声を主体とした面白さに主眼が置かれているように思われる。この手の笑いは原始的であり、本能的なものであると思う。そしてそれが原始的な笑いであるためか、音声を用いたダジャレのような笑いは古代から見ることができる。和歌にみられる掛詞などの修辞法も漢詩における決まり事として名高い韻もその類いの面白さとして重視されてきたのだろう。

 言葉が使われるようになって最初に現れた笑いはどのようなものだったのだろうか。少なくとも言葉を用いた知性的な笑いの始まりは、これまで述べてきた音声を主体としたものだと思う。笑いだけでなく歌もまた、音声という原始的な概念を主な要素としているからこそ大昔から人間の生活に密接に関わってきたのではないだろうか。