19歳、気がつけば大人

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   私は今一九歳で、次の成人の日に成人式が執り行われる歳なのだが、その日に中学時代の同級生が同窓会を企画しているそうで、その同窓会用に作られた数百人規模のライングループに招待された。
 
   同窓会って在学中はその存在について考えることはなかったし、同窓会について、おそらく当時の私は中学時代に仲のよかった友人たちに久々に会える楽しいイベントというイメージを持っていたと思う。
   しかし、卒業していざ同窓会の誘いが来てみると、あまり気が進まなかったのである。

   私は中高一貫校に通っていたから、中学校から高校に上がらなかったごく一部の人間を除いた約八割くらいの人間は高校まで一緒だった。
 高校を卒業して二年程度しかたっていないから、久々に会って気まずいと言うこともないだろうに。不思議だ。
 

   大学に入って新たなコミュニティの中で生活するようになったことで、もう思い出の一部になってしまった過去に戻りたくないとでも思っているからなのだろうか。それともまだ何者にもなれていない、当時から何も成長してもいない自分の姿を旧友に見せるのがいやなのだろうか。
 

   まあその辺よくわからんけれど、同窓会、結局私は行くのだろうってことはわかる。そんな人間なのよ、私は。

たまにゃ旅にでも出てみよう

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鉄道開業150周年記念でJR東日本が新幹線乗り放題パスを販売するそうだ。

JR東日本の営業範囲内の普通列車と特急、新幹線が3日間乗り放題で22150円という破格のお値段。10月下旬~末までの期間限定。

まあ利用可能エリアが東日本だけなので、金沢とか西の方には行くことはできず、西端はせいぜい長野くらい。一方で、北は北海道以外、つまり青森以南はOK。結構北には行ける!

ということで突然東北方面へ一人旅にでも出てみようと思い立ったのだった。

連続した3日間休みとれる日がなさそうなので少し授業休むか…仕方なし。
  
 両親の実家が山形にあるため、山形には結構行ったことがあるのだが、他の東北県に行ったことはほとんどない。

そもそも東北自体、あまり行く機会なかったな、首都圏以外に住んだことはないし、修学旅行は海外だった。家族旅行でも両親の出身地である東北にわざわざ行くことはほとんどなかった。今まで友達と行った旅行先も広島、福岡という具合に何かと西ばかり。

良い機会だ!楽しみになってきた!

ずっと行ってみたいと思っていたのは太宰治の生家である斜陽館。中尊寺にも行きたい。まあそのくらい。
 
 恐山にも行ってみたかったけれど、イタコさん今の時期来ていないそうで。

あとは牛タンとわんこそば、牡蠣とその他海鮮。

ノープランの方が案外楽しめたりしてね。

更新が全く習慣化できていないこのブログにいずれ旅の感想でも書こうと思う。

原始的な笑い


 9月も気がつけば終わりに近づいていている。私の通う大学も秋学期に突入した。

 さて私は3つバイトを掛け持ちしているのだが、その一つである塾講師のバイトで、耳の聞こえない高校生に国語を教えている。

 もちろん何も考えずに日々のうのうと19年生きてきた一大学生に手話は扱うなんて高等技術はないので、彼とのコミュニケーションは音声をテキスト化するアプリを介して行っている。彼は声を発することができないので、基本的に授業は私が一方的に話す形になる。
 
 このブログで別に彼についてこれ以上掘り下げるつもりはない。彼にとっての日本語と私にとっての日本語はその習得方法から大きく異なっていると思ったということについて書くだけである。日本語は(他言語もかもしれないが)文字化されたテキストにおいても発声を前提としている要素が多いと思った、というただそれだけの話である。これより先にたいした内容はないよ、今回は。多分。

 ある時その生徒の授業で二葉亭四迷ペンネームについて触れられている文章を扱った。二葉亭四迷という小説家はご存じの方も多いだろう。彼の著作『浮雲』は初の言文一致体による小説で文学のあり方を大きく変えた作品であると高校の授業で習った方も多いのではないか。
 そんな二葉亭四迷、本名を長谷川辰之助というのだが、ペンネームは「くたばってしめぇ」という罵倒文句に由来するという。
 私たちはこのような言葉遊びを面白いと感じるが、それは私たちが言葉を音声で認識することができているからであるだろう。
 

HUTABATEISIMEI
KUTABATTESIMEE
 

日本語を音声で認識することが難しい人に母音は似通っているでしょう、このように音声の核となる母音が一致していると音の響きが似るからそこに人々は感心するの、なんて教えてみても生徒の彼はその論理を理解することはできてもそれを実際に感じて感動することはない。そう思われて、なんとなくもどかしい気持ちになったのだった。

 私たちは文字を覚えるより先に音声から覚えるはずである。「まま」とか「わんわん」とか…
 このように第一言語においてはほとんど例外なく感覚的な音声から習得が始まる。先ほどの二葉亭四迷の例やラップなども音声を主体とした面白さに主眼が置かれているように思われる。この手の笑いは原始的であり、本能的なものであると思う。そしてそれが原始的な笑いであるためか、音声を用いたダジャレのような笑いは古代から見ることができる。和歌にみられる掛詞などの修辞法も漢詩における決まり事として名高い韻もその類いの面白さとして重視されてきたのだろう。

 言葉が使われるようになって最初に現れた笑いはどのようなものだったのだろうか。少なくとも言葉を用いた知性的な笑いの始まりは、これまで述べてきた音声を主体としたものだと思う。笑いだけでなく歌もまた、音声という原始的な概念を主な要素としているからこそ大昔から人間の生活に密接に関わってきたのではないだろうか。

10代のうちにやり残したことの総決算その1

 約一ヶ月前の新型コロナウイルスによる隔離期間に何の考えもなしにブログを開設してみたが、特に投稿する内容も思い浮かばず、自分の飽きやすい性格も相まって何も投稿しないまま一ヶ月が過ぎた。

 このままにするのもあまりよくはないし、何か書こう、と思いついたのが、10代のうちにやり残したものを消費していこうというものである。
 

 20歳の誕生日まで残り二ヶ月を切った。

 充実した生活を送っているが、一つやり残していることを思い出した。

 

 それが「クロノ・トリガー」をプレイすることだ。
 


 「クロノ・トリガー」は1995年にスクウェアから発売されたRPGである(画像はスクエニのホームページより)

 ファミ通の「平成のゲーム最高の1本」というアンケートでランキング1位を取ったとか。きっと面白いに違いない。

 

 高校時代、ゲーム音楽に魅了され、聴きあさっていた僕はあるとき「風の憧憬」という曲に出会った。その曲にはまり、音楽のよいゲームはもれなく神ゲーであるという考えのもと、当時高校一年生だった僕はプレイしなければと使命感に駆られたのだった。

 当時池袋とかの中古ゲームショップで探したのだが、どこを回っても見つからなかったから結局未プレイのままになっていた。

 

 さあこれはやるしかないぞ、なんとしてでも見つけ出してプレイしてやる。そう思ったAM5時の19歳でした。

次回、多分購入play開始。飽きずに投稿できたらいいなー。

10代最後の夏、ブログを始めてみる

 現在新型コロナウイルスに感染し、自宅療養中である。家にいてはどうにもやることが思い浮かばないからブログでも始めてみようかと思い立った。

 私は都内の大学に通う19歳である。同世代の人間にとってブログという媒体はどうもなじみがなく、触れるタイミングとしてはツイッターやインスタグラムのリンクから飛んでweb漫画家の漫画を読んだり、好きなアイドルがたまに投稿するブログ記事を、これもまたツイッターから飛んで眺めたりするくらいである。もはや漫画家や芸能人等、ブログ外である程度の知名度を誇っている人々しか人に読んでもらえるブログ記事など書くことができないのではないかという懸念はあるが、自分自身に人に読んでもらいたいからブログをやるのかと問うてみると、別にそのようなことはない。自己満足で書くだけだから飽きるまでやってみるだけである。

 むしろ、ブログを書き始めることで新たなコンテンツに出会えるかもしれない。今まで馴染みのなかった他人のブログを読むようになるかもしれない。

10代最後の夏に始めたこのブログが自分の中で新しいなにかのきっかけになればいいなと思う。